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スチューベン郡()は、アメリカ合衆国インディアナ州の北東隅に位置する郡である。2010年国勢調査での人口は34,185人であり、2000年の33,214人から2.9%増加した〔Quickfacts.census.gov - Steuben County - accessed 2011-12-06.〕。郡庁所在地はアンゴラ市(人口8,612人〔Quickfacts.census.gov - Angola, Indiana - accessed 2011-12-06.〕)であり、同郡で人口最大の都市でもある。州南西隅にあるポージー郡からスチューベン郡までが州内で最も長い直線距離となる。 == 歴史 == 『インディアナ州のイラスト付き歴史地図帳』(1876年)には次の記述がある〔Andreas, Alfred T. (1876). ''Illustrated Historical Atlas of the State of Indiana'', Baskin, Forster, Co., Chicago.〕。 :現在のスチューベン郡となった地域で最初の恒久的開拓者の小屋から煙が上がったのは1831年春のことだった。その開拓者はギデオン・ラングドンだった。その原始的な小屋はジャクソン郡区第5区の南西四分区画にあり、後にタウン農場と呼ばれた。この年9月17日、ラングドンは郡で最初の土地に関する記録を取り、四分区画の東半分に名前を付けた。 :そこは現在のジャクソン郡区にあり、初期開拓者の大半が入った。ジャクソン郡区にはかなりの広さのプレーリーがあり、当時は選択が自由にできた初期の移民は、比較的容易に耕作ができるそこの肥沃な土壌を自然に選んだ。 :次の開拓者はジョン・ステイナーとジェイコブ・ステイナーおよびその家族で総勢12人だった。オハイオから1831年5月16日にジャクソン郡区に移ってきた。ジョンはプレーリーの北側を選び、ラングドンから遅れること10日の1832年9月27日に、第5区南西四分区画の西側半分に入り、そこが現在の郡境となった〔"There is some dispute as to whether they Stayners or Gideon Langdon settled first, as they all came in at about the same time". ''History of Steuben County'' (1885), Inter-State Publishing Co., Chicago.〕。 :ステイナー兄弟は米英戦争ではジャクソンの下に仕えた軍人であり、二人共強健で心ある者達だった。ジョンは最初に入った土地で暮らしを立て、1870年に死ぬまで続けた。州議会に派遣され、住んでいる郡区には昔の上官だったジャクソンの名前を付けた。 :郡内の最初の死者は1832年に死んだギデオン・ラングドン夫人だった。その遺骸はプレーリーの埋葬地に埋められ、それ以降その土地はD・H・ロバーツの所有になった。 :郡内で最初の結婚は1832年オジェイムズ・ハンツマンとハンナ・デイビスのカップルだった。これは郡が組織化される以前のことだった。 :郡内で最初の学校は、ジャクソン・プレーリーの北側に建てられた。最初の花嫁になったハンナ・デイビスが最初の教師になった。最初の校舎は粗野な松材の小屋であり、ジョン・ステイナーとアドルファス・タウンが約50ドルで建設した。エリザ・イートンが次の教師となち、生徒一人につき2ドルを受け取った。これは子供達を学校に送り出す者達に課された税金だった。 スチューベン郡は公式には1837年にラグレンジ郡から分離して設立され、郡名はアメリカ独立戦争の軍人だったドイツ人フリードリッヒ・フォン・シュトイベン男爵に因んで名付けられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「スチューベン郡 (インディアナ州)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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